1900年初頭二人の自転車屋が、永久に自動車産業への参入を運命づけられていた。彼らは、ダッヂ兄弟、ジョンとホーラスだった。彼らはミシガン州の父親の店で自転車整備工として仕事を始めた。カナダのオンタリオ州ウインザーに引っ越してから、始まったばかりの自動車産業のニーズに見合う技術を身に付け複雑な自動車部品を製造することに成功した。ジョンとホーラスがヘンリー・フォードに知られるまでそう長くはなかった。ヘンリーはダッヂ兄弟に感心して彼らの新しい自動車会社と10%の割合で契約するように申し出た。その契約はそれから12年間続いた。兄弟はそれから、自動車製造における自分たちの利益を追求するためにフォードと決別した。なぜなら、その当時フォードの車は事実上、全てダッヂの部品で製造されていたからである。ジョンとホーラスがなぜ、自分たちの車を作りたかったのかと訪ねられた時、ジョンは次のように語った。「いつか、自動車を欲しがる全てのフォード社のオーナーのことを思ってのことだ。」
1914年にダッヂ・ブラザーズ社が設立された。その年、ダッヂは信頼性と耐久性のために作られた無骨な車である「オールド・ベッツィー」を249台製造した。
 1928年にクライスラー社は、大きくなっていたダッヂ・ブラザーズ社を買収した。ダッヂは、WWⅡパワー・ワゴン(戦後10年間、製造を続けるほど十分な賞賛を得ていた車)を含む車の生産ラインを拡大し続けていた。長年、ダッヂは多くのスタイルと1953年のコロネットでの、最初の140馬力の「レッド・ラム」V8エンジンを含む、エンジンで進歩し続けた先駆者であった。
1960年代と1970年代にダッヂは、ストックカーレース(レース用改造車)用として505チャージャー・デイトナを生産して、高性能な「高速中型車」でアメリカを魅了した。
 ダッヂ・ブラザーズが耐久性に優れて、力強い車を組み立てることによって始まった伝統を決して忘れないためにダッヂとクライスラーは1980年代にダッヂ400とクライスラー・リバロンで国産のコンバーチブルを復活させた。1990年代には熱烈に期待されたダッヂ・バイパーは「高速中型車」で勢力を取り戻した。それらは全てすぐにダッヂ・ラム・ピックアップ、ダッヂ・ダコタ、ダッヂ・ヂュランゴの新しく、活動的な外見で最高潮に達した。


1903年~ T型フォードのシャシを製造
1913年~ 自動車を製造
1914年 ジョン・ダッヂとホーラス・ダッヂの二人によってデトロイトに設立
     最初の車はオールド・ベッツィー 249台製造
1916年 ダッヂ4は785ドルで売られ その年70,700台を販売
1920年 2月 ジョンはインフルエンザにより42歳の短い生涯を終える。
1920年12月 ジョンの死後10ヶ月後ホーラスも死亡。
1928年 クライスラーによりダッヂ・ブラザーズ社は買収される



   


びんごモノづくり村

ダッヂ・ブラザーズ社の歴史